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2012年11月22日

「環境が人を作る」という他責

「環境が人を作る」ということが色んな本の裏側に潜んでいる。

確かに、生まれつき最悪な状況の人もいるだろう。
いるが、そういうこと(極端な話)をここで言いたいわけではない。

やれ、
スラムに生まれた人は幸せになれない。
高学歴の人に低学歴の人は及ばない。
子供に執着しすぎた母のせいでマザコンができる。
犯罪者は生まれ育った環境の犠牲者だ。
反対に、どこどこに生まれたらそれだけで幸福になれるだの。

そういう人に
 

これらの本を読んでいただきたい。

自分が「今」その状態(肉体だけでなく心情も)になっているのは、
全て自分が選択した結果である。
ということが、これらの本にはわかりやすく書いてある。

どんな環境下で過ごしても、人はその人がなろうとする人になれる。
だからこそ、犯罪を犯した人でもこれからの選択次第では、幸せにだってなれる。

反対に環境の犠牲者のままであれば、
その人は自分の可能性や選択権を放棄し、
環境に翻弄されたまま人生を終えてしまう。

これは僕の考えであるが、生きるということにおいて
非常に重要視したい価値観の1つに「納得」がある。

そして納得というものは、
「全ての事を自分で考え、選択してきた」
ということの結果としてついてくるものだと考えている。

全ての事を、僕は自分で考えて生きたい。
その結果遠回りになっても、失敗しても、怪我をしても
自分の手足・頭でこれまでやってきたと、そう言いたい。

そうしないと、納得できない。
納得して、その状態(今の自分がここにこうしているという状態)にいれない。

親の七光りで成功したいと思わない。
自分でつかんだという納得感がないから。
たとえれば、きっとこういうことです。

納得感のために、僕はとことん自分で選択したい。
誰のアドバイスをもらおうと、私は私が規定する。

なので、影響できる範囲においては、
全ての事柄が自分の責任の範囲で存在する。
となると、責任は重大である。
「誰のせいにもできない」から。

そのかわり、自由がある。
全て自分の責任で生きていけるという自由がある。
自分で、選び取れる。

もちろん限界はある。
あるが、その限界に挑戦し、限界をこじあけることもできる。
こじあけることができなかったとしても
限界に挑戦したことに対する納得感は大きい。

あのときああしておけば、という後悔もない。
結果として早期に死ぬことになったとしても、
何も選択してこなかったという後悔の中に死ぬよりかは良い。
と、僕は思っています。

ですので、最初に書いたような、
「こういう環境に生まれたから仕方がない」
みたいな言い訳、というか自分の可能性を捨ててることの正当化、
というのが好きじゃありません。

僕たちはそういう人にこそ
自分の未来は自分でしか切り開けないし、
今までも自分たちで選び取ってきた結果だ
と言ってあげることもできる。

と言っても、それ相応に頑張ってきた人に
鞭を打つように言いたいわけではないです。
そういう人には「頑張ったね」と言ってあげたいわけです。

ただ「そんな環境だったら誰だってそうなるよ」
なんて、環境の犠牲者みたいに人を扱うことで
その人はさらに環境に依存し、そこから抜け出せない生き方になってしまうという可能性がある。

そうなってほしくはないんです。

といってもです、やはり厳しく追い詰められている人には
それなりの手助けが必要だとも思います。
ただ、それは最低限で良いでしょう。

その人がある程度自分の足で歩きだせるようになるまで。
そこまでで良いと考えています。
与えるのは魚ではなく、魚の捕り方。
って話。

ちょっと唐突ですが
「自分はこんなにダメだからこんな目にあって当然」という思考も、変えられる。
そういう思考を自分でしていると、気付いて。
そして、それが自分のためにも周りのためにもなっていないことに気付けば。

とまあ、長いのでそろそろ終わりましょう。
環境のせいにしたら、一気に自分でできることが減ってしまう。
それは非常にもったいない。

あ、エゴイストになれってことじゃないですよ。
じゃなくて。

今の自分に納得していないなら、
環境のせいにせず、自分の力で選択することで
そこそこ納得した自分になれるって話です。

ただね、でもね。
本当に追い詰められてるなら、誰かを頼って良い。
誰にも何にも頼らないというのも、また違うと思いますよ。
タグ:哲学
posted by hinata_hisa at 23:46 | 東京 ☀ | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする