2018年01月14日

心が折れたらさらに折ろう

DSC05315のコピー.jpg

完全に心が折れているのでさらに折る必要があって、
何もかも憂鬱な夜に/中村 文則
を読み返していた。




正確には、「読み忘れていた」と思っていたのだけど、読んでみたら一度読んでいたという落ち。

「何もかも憂鬱な夜に」は中村 文則の本で初めて読んだ本で、すごく救いがあるなという記憶だけあって。
読み直してみたら、やっぱり救いがあった。
けど途中に出てくる"XX"という死刑囚を死刑にするシーンは圧巻すぎて、2度目でも辛かった。
"佐久間"をぶんなぐった気持ちもよくわかるし。
それによって"真下"がいっていた事が現実化するんじゃないか、っていう。

私も「ここで一線超えたらやばい」というギリギリの分水嶺まで行きたくなることがある。
それは自殺とか、殺人とか、そういうたぐいのもので。
実際は「殺人の門(東野圭吾)」くらいそれには段階が必要なのだろうけど。

"真下"の狂気がどこからきたのかわからないけども、その生まれつき持っている狂ったような。
その何かに操られてしまうような感覚は理解できる。

けど最後は"あの人"になろうとする意識がそれを上回ったのだと思う。
多分普通の人も多くはこのような、正常と異常の分水嶺を行ったり来たりしているのだろうなと、思う。
明日は死のうとか、明日は生きようとか。
ほんの少しの差でしかなくて。結局生と死は裏表のように。

"真下"が書いていた日記にある、人間は拡大戦略をとっているという話が面白い。
生物学的な発想に囚われすぎている感はあるけども、その視点からすると非常に面白い。

最終的に、この生物学的なDNAの連鎖の部分で(あの人の言葉で)主人公は救われるわけで。
ここでも多分、正面と裏のような関係が見える気がする。

どんな物事も明るい方を見るのか、影を見るのか、ということなんだろうと。
そして思えばどちらにも行ける。
行けるが、多分どっちに行くかは最後は自分の意志、なんじゃないかなと。
ただここで"山井"の存在が「境遇によって起こってしまったエラー」みたいに、書かれていて。
これは多分
・意志による選択も境遇によっては意味をなせない場合もある
ようなことが言いたいのかもしれない。

・ある程度恵まれた人間に触れた人が
・最悪を跳ねのけて意志によって明るさを見ることができる
・どんな人でも
ってことな気がする。

あと特筆すべきはP.174の人を殺したときの"山井"の描写は最強に暗い。
思わず泣いてしまった。
「真っ暗などこかに、放り投げられる。」
怖い。怖すぎて、絶対に人は殺すまいと誓うレベルの怖さだった。

やはり名作はいつ読んでも名作だなと改めて思った。



土の中の子供も一緒に読み直したのだけど、設定が似すぎてて。
でも最後の救いは救いで好きだ。
世界でたった1人でも、一緒にいれるひとがいるってのは、本当に救いなんだなと強く思った。



本当は日の名残り (ハヤカワepi文庫)の話もしようかなと思っていたけども長すぎるので割愛。

最初の写真は京都駅で撮影したもの。
posted by hinata_hisa at 22:58 | 東京 ☀ | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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